昭和48年8月5日  特別奉修委員  ●② 大坪かよこ
 

 お礼を申させてもらいよりましたら、●②あの、釣りたてのあの、川魚ですね、これくらいばかりの大きな鮎のように大きなはやです。
はやが、あのそれこそまだ取り立てのあの笹の葉のね、を敷いてこう見せてくださったんですけれども、どんなに魚が生き生きしておっても、もし笹がこう曲がっておったりね、こう枯れかかっておったりしたら、魚まで古いように見えるしね、またそれと反対のことも言えるわけです。
笹が古かってもいけん、魚が古かってもいけない。その両方が生き生きとした、瑞々しい魚で、また青々とした笹が敷いてあって初めて素晴らしいということになるわけですけれど、まあ、私をまあ、笹にしてもよかりゃ、魚にしてもいい、皆さんを笹にしてもよければ、魚にしてもいいわけですけれども、まあ、合楽教会の中でも、これ特別な、特別奉修委員、特別のご信心修行をなさっておられるということは、やっぱり生き生きとしたはやであろう、または笹でもあろうとこう思うんですね。
それをなら神様が、お受けくださらんはずは無いと思うんです。
昨日、神愛会で先生方皆集まっておりましたが、ほんとにあの成せばなる、成さねばならんというような、ことを昔から申しますが、もう信心にはこれが一番適切に当てはまるようですね。
はあ、あなたもうどげんでございますけんで、お参りが出来ません、ちょうどお参りしょうと思いよったら、こうでした、これはもう絶対言い訳です。
だから、これをならこれを私がまあ、例えば聞かせてもらうときに、ああそうでしたか、ああそんなことでしたか、と聞きよりますけども、そげなこつが、あんたがもう絶対参ろう、本気で参りよろうと思いよらんけんていというのが、私の実際です。
ですから、神様にもそげんお届けしよるです。ね、あれはああして、あげんして言い訳をしよりますところですから、そこんところを神様に私はお取次をさしてもらうことは、お詫びをさして頂いておるです。
ね、これはもう絶対のもんです。
昨日も朝の、壱岐の末永先生から電話がかかってきてから、その、飛行機で見えなければ間に合いませんが、もうあちらへ行って切符はもう買えるもんと思ったところが、その、満員で切符が売り切れになっとった。
それで、誰かその、切符は買うてあるけれども、あのできない人かなんかができ、できれば乗れますけどもということだったそうです。
だからどうぞお繰り合わせをお願い致しますというて、電話がかかって来とる。
それからあの、お願いさせて頂いとりましたら、やんっぱちょうど時間に間に合うようにお参りしておられました。
ちょっとおかげで、一人その、あの、乗らない方がありましてね、おかげを頂いたとこう言うてあって。たとえば、もうほんとにあの、それこそ海を渡って壱岐からですね、たった二時間が二時間、三時間あまりのお話しを頂くために、もう一生懸命で、ね、例えばこれはあの熊本の富永先生達の場合でもやっぱ同じことが言えます。
ようにあのしん、神様へ通うというというのはそういうことなんです。
一心とは、今朝から頂きま一心とは、そういう、だからあのそれがもし、あの、お繰り合わせいただいたなら参ろと思いよりますというようなことでは、ね、あの絶対ほんとのおかげにはならんですよね。
もう金光様のご信心はどこまでも、その一心が貫かれるというところにね、おかげを頂かしてもらう。
昨日、教師会の、教師会、神愛会の中で、若先生が、合楽のこの七月の夏季信行、もとは五十日間でしたよね、今は、三十日になりましたから三十日になって、まあ、合楽に、本部に歩調合わしてですけれども、これがあってる教会はめったにないわけですね。
あっておっても、もう何人かお参りがあるといったようなことで、もうとにかく始めからこういうふうな、まあ、言葉は悪いけれども、こげん当たるとは思わじゃったということを言うております。
もうここへ、もうちょっと六回目ですかね、こちらへ参りましてからはじめたのがもう一番初めからですね。
それが素晴らしい様々な意味で神様のおかげを頂くと同時に、タイミングがね素晴らしい。ちょうど、若先生があの大阪の泉南教会に、あちらの先生、友達んところに尋ねてまいりまして、そから、あちらで何日間か、あちらの信心を、ま、見て来とるわけですね。
それで帰ってきて、すぐあの修行だと、ほれが、そのあちらでは、そん、マイクを前にして、たすきがけだそうですね。こりゃ。
ほりでもう、町内全体に響き渡るように、そのもうそれこそ皆さんもあの、ご承知のように、あのもう御祈念力だけでおかげ頂いちゃるじゃろうちゅう教会ですからね。
ものすごい、それをそのまま、合楽に持ってきたわけです。
それに夏季修行にぴったり来たわけです。
ただ私が、たすきがけは止めなさいというてから、たすきがけはかけさせません、たすきがけでやるちあん時は言いましたよ。
けどもそういう一つの、素晴らしいタイミングと勢いと、そすと神様のおかげとが、あの、一、これはもうあの全国に、一時の御祈念ば、こんな、あの異常なまでの、勢いで、信心修行、いわば、御祈念修行ですね、に取り組んでおるところは、まず無かろうと思う。聞いたところも無いです私ども。
というようなおかげを頂いてもう六年間続けてきたわけですよね。
ですからその修行の期間が、あの、それこそ当てたというほどしに、沢山の人がお参りをして、第一、・・?の皆がお参りしょうというのはね、大体三十分で帰られるということなんですよね。
御祈念が、そしてもう親先生の話をちょこっとばかり聞けばよか、ちゅうことがもうだい、魅力のごとある。もう、あそこにお参ったなら、三十分お話いただかなやんけん、ちゅうとこもあるばってん、もう五分間ですむちゅうところが、やっぱそのみそだろうというて昨日、笑い話したことでしたけれども。
まあ、どちらにどう致しましても、なら、そういう素晴らしい修行、またはなら皆さんが、よその教会にもこんなことが感じたことがない教会のこと、親先生のことを願う、それが特別奉修委員の方達の祈りの焦点であり、中心であるといったようなのをまだ、かって聞いたことがないような、ユニークなね、いうなら、信心でありはなしである。
今、神様がそれを受けてくださる、あの夏季修行を受けてくださる。
それをね、受けてくださる。それこそ生き生きとした笹であろう、生き生きとしたはやであろう。受けるものも、また、それを願う者もそういう有り難いのだけれども、それだけが有り難いのではだめだと。
親教会のことを願い、親先生のことを祈る、そういう願いが今日のご理解で、朝のご理解にあるように、それを持って帰って、それがそのまま、誰かれの上んでも、どのような場合んでも、それの上に行が現わされなければだめだと。
一月間に、夏季修行が、あのような異常なまでの勢いで済まされた、けどもその済まされただけで、その信心になって次の信心に、飛躍していくことのための次の御用に、あの勢いが持ち込まれることのために修行はあるとです。修行ちゃ手が上がるためにするとです。何の修行でもそれをただ、修行のための修行ではなくて、信心が一段飛躍することのための修行なんです。
ところがはたして、飛躍した人が、ああこれでやれやれで済んだでなら、も、かえって、朝のお参りもでけんというような人たちも、あるぐらいなことですからね。これでは、なら修行が修行にならない。
特別奉修委員の方達のこういう真心を持っての信心が、それをそのまま日常生活の上に現わしていけれるというところに、特別奉修委員の方達の、信心がかけられれおる。神様の願いもそこにあるのだというふうに、私は思うですね。どうぞ。